はじまりは子どもの頃の昆虫採集『ポケモンをつくった男 田尻智』 PRを含む

はじまりは子どもの頃の昆虫採集『ポケモンをつくった男 田尻智』 
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世界中で大人気のポケットモンスター。

そんなポケモンが、どうやって誕生したか知っていますか?

ポケモンの販売元は任天堂ですが、ゲームを作っているのはゲームフリークという会社です。

そのゲームフリークの社長・田尻智(たじり さとし)こそ、ポケモンを生み出した人物。

「マリオを超えたい」

そんな想いが、子どもから大人までを夢中にさせる大ヒット作をこの世に誕生させました。

そこで今回は、書籍『ポケモンをつくった男 田尻智』についてご紹介します。

少年時代の昆虫遊びがポケモンを生み出した

 

ポケモン虫捕り

ゲームクリエイター・田尻氏は、子ども時代を東京都町田市で過ごしました。

昆虫好きであった彼は、中でもノコギリクワガタに夢中でした。

「どうしたらクワガタを捕まえられるか?」

「どこに生息しているのか?」

クワガタの生態を調べたり、捕獲方法を考えては、自然の中に出かけていたわけです。

ポケモンが生まれた背景には、この少年時代に養われた研究心や好奇心が活かされています。

また、学校では毎日、何かについてクラスメイトの前で発表する時間が設けられていました。

自分で調べて、まとめて、発表する。

こういった機会が毎日あったことで、物事をじっくり調べる習慣が身についたようです。

個人的には、学校でこのような授業時間があったことは、主体性を育てる上で大きいと思いますね。

インベーターゲームとの出会い

インベーダーゲーム

田尻氏が中学生になった頃、ある事件が起きます。

コンクリート工事によって、生き物の棲み家である小川が失くなってしまったのです。

そんなときに出会ったのが、ゲームセンターでのインベーダーゲームでした。

そこから田尻氏はインベーダーゲームにのめり込んでいくわけですが、中学生のおこづかいなどたかが知れているので、ゲームにそれほどお金はかけられません。

「長くゲームを楽しむためには、どうしたらいいか?」

田尻氏は他の人のプレイを見たり、研究したりして、ゲームの攻略法を考え始めます。

そこで生かされたのは、クワガタの習性を調べて、捕獲方法を編み出した経験でした。

調べる・考える・実践する

といった行動を応用したのです。

ゲームと外遊びは全く別物ですが、「どうしたら、クワガタを獲れるか」も「どうしたら、100円で長くゲームをプレイできるか」も、自分の目的を達成するために試行錯誤するという点では同じです。

その後、田尻氏はゲームの仕事に就くため、高校でコンピューターの勉強を始め、ゲームの攻略法をまとめた雑誌も自作するようになります。

見習いたい、田尻智のアイデアと情熱

ポケモン捕獲

ここでは『ポケモンをつくった男 田尻智』を読んで、私の中で特に印象に残ったポイントについてご紹介します。

(1)「交換」という発想

このケーブルの先には 無限の可能性が広がっているんじゃないだろうか?

引用:ポケモンをつくった男 田尻智(P87)

田尻氏は、中学生の時点で「おもしろいゲームには新しい動詞が含まれている」ということに気づいていました。

  • スーパーマリオ「踏みつける」
  • スペースインベーダー「撃つ」
  • パックマン「食べる」

その着眼点から生まれたのが、ポケモンにおける「交換」です。

田尻氏は1989年にゲームボーイが発売されたとき、通信ケーブルに大きな可能性を感じていました。

「ただ友達と対戦するだけではなく、もっと何かできるのではないか?」と。

今やポケモンにおいて、交換後も自分がポケモンに名付けた名前がそのまま残ったり、交換によってポケモンが進化したりするのは当たり前となっています。

しかし、この「交換」という発想による世界の広がりがなければ、ポケモンはもっとつまらないものになっていたでしょう。

田尻氏が昆虫採集で感じたワクワク感、友達との交流、世界が広がっていく感覚が、ポケモンには活かされています。

(2)綺麗なグラフィックより「おもしろいゲーム」を作りたい

確かにきれいな映像表現は、テレビゲームにとって大切な要素だと思う。

でもゲームフリークにとって、ゲームをつくるということは、「おもしろいゲームをつくるってことなんだ」。

引用:ポケモンをつくった男 田尻智(P144)

ポケットモンスター赤・緑が発売されたのは1996年ですが、その頃すでにスーパーファミコンやプレイステーションは発売されていました。

時代のトレンドは、綺麗な映像のゲームに移行しつつあったのです。

しかし、田尻氏はそれでも白黒のゲームボーイにこだわりました。

なぜなら、田尻氏を含むゲームフリークが作りたかったのは、美しい映像のゲームではなく、おもしろいゲームだったからです。

想像力豊かな子どもであれば、たとえ白黒であっても、広がる壮大なスケールを感じ取ってくれるはずだという思いもあったとされます。

私も小学生の頃、ポケモン赤・緑をプレイしていたのですが、確かに白黒の映像は全く気になりませんでした。

当時、スーパーファミコンもやっていたので、今思えば綺麗なグラフィックに走りそうなものですが、白黒など気にならないくらい、ポケモンが持つおもしろさや世界観に惹かれていたのだと思います。

ポケモン発売まで6年かかった

ポケモン対戦

ポケットモンスター赤・緑は、企画から発売までに6年かかりました。

その過程では、

  • 仲間のプログラマー3人が全員辞める
  • ポケモン制作の全データが入ったコンピューターが故障
  • ゲームサンプル完成後、シナリオを一から修正

など、さまざまなトラブルがありました。

おもしろいゲームを作るには必ずしも長い時間がかかるとは言えませんが、何かを成し遂げるには、時に辛抱強く取り込まないといけないことがあるのは事実でしょう。

世界中で愛されているポケモンには、多くの情熱と時間をつぎ込まれています。

もしかしたらポケモンは30匹だったかもしれない

ポケモンセンター

赤・緑のポケモンは全151種類ですが、当初、ポケモンは30匹までしかセーブできない作りでした。

つまり、151匹のポケモンを全てコレクションすることはできない設計だったわけです。

しかし、ある日、任天堂から「バックアップメモリーを増強しない?」との話を受けたことで、240匹までのセーブが可能となりました。

これによってポケモンは、151匹全てをコンプリートできるようになったのです。

この任天堂からのプレゼントの背景には、ゲームフリークと共にポケモン制作に携わっているクリーチャーズの石原社長(現:会長)の力添えがあったとされます。

もし、手持ちとポケモンボックスに預けられるポケモン合わせて全部で30匹までだったらと思うと、恐ろしいですね……。

もはや感謝しかありません。

おわりに

ポケモンをつくった男 田尻智(巻末)

お気づきの方もいると思いますが、

ポケモンは、田尻氏が子どもの頃に夢中になった昆虫採集が根幹となって生まれた作品です。

田尻氏が少年時代にした、クワガタの生態を調べる・育てる・捕まえるという経験。

そして、友達の交流。

広大なフィールドを舞台に数々のポケモンと出会う喜び、冒険するワクワク感を味わえる作品は、田尻氏の少年時代の自然体験がなければ生まれなかったでしょう。

だからこそ、ポケモン赤・緑の主人公の名前は「サトシ(田尻 智)」なのです。

人生には無駄なことなど一つもなく、経験した出来事や学びはきっとどこかで活かせるのではないか。

そう感じさせてくれる一冊です。

ポケモンをつくった男 田尻智
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Wrote this articleこの記事を書いた人

松崎 清央

自然体験教育者/イベントプランナー。【経歴】4年間市役所職員として、子どもの自然体験活動の企画・運営など青少年教育事業を担当。退職後はアウトドア専門学校に入学し、登山やキャンプなどの知識技術・安全管理・自然知識を学ぶ。その後、独学でWEBライティング技術を習得。ブログ月間1万5千PV達成。現在フリーランス。

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