山好きなら大半の人が知っているであろう、新潟県にある火打山。
火打山は日本百名山の一座で、夏は高山植物が咲き乱れ、秋はナナカマドやダケカンバが見事な紅葉を楽しませてくれます。
しかし今、その火打山の絶景が消えかけていることを知っていますか?
問題となっているのは、火打山登山の拠点である高谷池ヒュッテの水洗トイレ化です。
バイオマストイレから水洗トイレに変わったことで、環境への負荷が強くなり、ヒュッテ周辺にある湿原が将来的に失われようとしています。
火打山の美しい景色は、高谷池湿原があってこそのものなので、湿原が消滅すれば当然、高山植物の群れや草紅葉も二度と見ることができません。
そこで今回は、火打山・高谷池ヒュッテのトイレ水洗化について、私が思うことをご紹介します。
単に「自然を守ろう」的な意見ではなく、4年間某市役所の正職員として勤務した経験も交えて、行政(妙高市)と自然体験教育者の両方の視点から解説します。
火打山登山での見どころは、“高谷池湿原”
火打山ヘ向かう途中には、高谷池ヒュッテと呼ばれる山小屋があります。
高谷池ヒュッテは妙高戸隠連山国立公園内にあり、標高2,100 mの高山植物の宝庫として知られる高谷池湿地帯のすぐそばに位置します。
火打山と妙高山の中間にあるので、登山の拠点として利用される場所です。
高谷池は数多くの高山植物が咲き、ハクサンコザクラやアオノツガザクラといった花々が登山者の目を癒してくれることから、別名「天上の楽園」と呼ばれています。
世界各国が視聴するニュースネットワーク『CNN』では、「日本の最も美しい場所31選」に選ばれました。
特に紅葉シーズンの高谷池湿原の紅葉グラデーションは美しく、自然の織りなす光景に息を呑みます。
なぜ、水洗トイレが問題なのか?
毎年全国から登山者が集まる火打山ですが、今その豊かな自然景観が将来的に失われるかもしれない事態に直面しています。
問題となっているのは、高谷池ヒュッテの水洗トイレ化です。
普通に考えれば「トイレが清潔で、きれいになることは良いこと」のように思えますが、快適さや便利さと引き換えに失われていくものもあります。
(1) 湿原の乾燥化・陸地化
高谷池ヒュッテのトイレが、従来のバイオマスから水洗トイレに変わったことで、高谷池湿原の乾燥化・陸地化が進んでいるとされます。
そもそも湿原とは、“泥炭”と呼ばれる枯死した植物が水中の地面に堆積し、その上に植物が根を張り、草原となったものです。
泥炭の堆積速度は、年間1ミリ程度とされており、湿原ができるには気の遠くなるような年月を要することがわかります。
湿原ができる条件は、多くの水分と低い気温
通常、植物は枯れた後、微生物によって分解されますが、高谷池のような水が豊富で気温の低い環境では、酸素不足により微生物の活動が抑えられ、枯死した植物がそのまま堆積していきます。
これらの枯れた植物は、非常にもろい繊維でできており、乾燥してしまうともう元には戻りません。
そのため湿原では乾燥防止の目的から木道を設置し、直接足が地面につかないように保護されているのです。
湿原は一部の環境でのみ形成される、貴重な景観
今回の高谷池ヒュッテのトイレが水洗化されたことで、湿原の維持に必要な水分が不足しているとされます。
手洗いや飲み水だけでなく、トイレにも水が多く使用されることになったので、「それはそうだよね」と言ったところです。
(2) 水不足による登山者への影響
水不足の問題は湿原だけでなく、登山者にも影響しています。
高谷池ヒュッテ側もSNSで、湿原の水量不足について発信していました。
山小屋が水不足になると、登山者はさらに多くの水をスタート地点から持参しなければなりません。
山を知っている人であれば、ほとんどの人が節水を心掛けますが、山小屋泊かテント泊かに関わらず、少なくとも食事にも水不足の問題は影響してきます。
(3) ライチョウの減少
火打山で運が良ければ、ライチョウという鳥に出会えます。
ライチョウは北極圏に近い寒帯に分布する、ずんぐりとした体型の鳥です。
日本では火打山や乗鞍岳、御嶽山など標高2,400m級の一部の高山帯でのみ見られます。
しかし、高谷池ヒュッテの水洗トイレ化によって「ライチョウも減少するのでは」と言われています。
一見すると、ライチョウの生息環境と水洗トイレに何の関係もなさそうですが、水洗トイレ化によって、浄化槽が常に稼働状態になっていることが問題なのです。
浄化槽の電力消費量が増えると温暖化が進むため、寒冷地を好むライチョウに影響が出る可能性があります。
高谷池ヒュッテのスタッフによると、水洗トイレになったことで浄化槽の燃料使用量は、2019年の20倍になったとされます。
参考資料:Facebook / 長野 康之氏|高谷池ヒュッテの水洗トイレを速やかにバイオトイレへ戻してください
コロナ禍でこの燃料使用量ですから、コロナの事態が収束すれば、さらに燃料使用量が増える可能性もありますね。
それにライチョウの個体数は、ただでさえ減少傾向です。
環境省レッドリストでは、いずれ絶滅する危険性が高いとされる絶滅危惧ⅠB類に指定されています(環境省レッドリスト2019)。
水洗トイレ化を決定した妙高市としても、ライチョウは守りたい気持ちがあるようです。
妙高市が高谷池ヒュッテを水洗トイレ化した理由と登山者ニーズについて
「観光客を増やして利益を上げたい」という想い
妙高市が高谷池ヒュッテを水洗トイレにした一番の理由は、「観光客を増やして利益を上げたい」からとされています。
この「観光客を増やしたい」「利益を上げたい」という想いについては、私も異論ありません。
地域を活性化させて街全体を盛り上げていくには、「いかに人を呼ぶか」という経済の追求が必要不可欠です。
しかし、ここで気になるのは、果たして妙高市がどこまでターゲットリサーチをしたのかという点です。
市役所職員を含む公務員の役割は、営利を目的とせず、広く社会や人々のために平等の意識を持って責務を遂行することです。
民間企業とは違い「営利を目的とせず」業務を行うので、どうしてもマーケティングの知識などビジネス感覚に欠ける点があります。
実際、私も市役所職員の頃は、この感覚が不足していました。
青少年向けの教育プログラムを提供する際、自分が提供するサービスに対して「顧客は誰なのか」「時代や人々に対するニーズは合っているか」について調査することはほとんどなく、「たぶん、こんなのを求めているだろう」という自分の推測や憶測で企画を考えていたわけです。
今回、高谷池ヒュッテの水洗トイレ化が問題となった背景には、このように妙高市が登山者のニーズを把握できず、間違った方法で観光客を増やそうとしたことが挙げられます。
推測や憶測に頼らず、登山者のニーズを把握しないといけない
何か事業や企画をする際に、「そこに需要はあるのか」を考えることは重要です。
高谷池ヒュッテの水洗トイレ化についても、妙高市が「トイレはキレイな方がいいのでは?」という推測や憶測で事業をスタートさせたのか、登山者や市民からリクエストがあって水洗化したのかで、結果が変わるのは当然です。
登山者や市民の声が発端ではなく、妙高市側の考えだけで水洗トイレにしたのであれば、「こんなものいらなかった」と登山者から言われても仕方がないでしょう。
登山者のニーズを的確に把握して事業を展開しないと、妙高市の目的(観光客を増やしたい)とは裏腹に、登山者は減少し、利益減収につながる可能性があります。
快適な環境を求める人は、そもそも山に来ない
妙高市としては、快適かつ清潔な水洗トイレによって利用者が増え、利益が上がると考えたのかもしれませんが、そもそも快適な環境と求める人は山に来ません。
もちろん私も、山小屋のトイレはキレイな方が嬉しいです。
しかし、登山者が本当に望んでいるのは快適性ではなく、山や自然の維持ではないでしょうか?
水洗トイレ化によって多少トイレが快適になったとしても、高谷池湿原の絶景が失われてしまっては登山者から愛想を尽かされ、利益は減少する一方です。
登山者が求めているのは、可憐に咲き誇る高山植物や美しい景色、その素晴らしい環境の中で過ごす贅沢な時間ではないでしょうか。
少なくとも、私はそう思います。
「少し臭いはするけど、それが山だよね」
私は2020年10月上旬に、高谷池ヒュッテのトイレの現状を把握するため火打山に登りました。
そこで偶然、友人同士と思われる、ヒュッテの水洗トイレ利用者の話を聞いたのですが、
「それが山だよね」
といったことを話していました。
これが全ての意見だとは思いませんが、これが登山者の意見です。
登山者の多くは山の景観や山そのものを楽しみにきているのであって、トイレに対してそこまで過度な期待はしていません。
また、標高2,000mを超える火打山に登るような人は、山に慣れた初心者や中級者以上である可能性が高く、ある程度、山の環境や山小屋の設備不足も理解していると思われます。
「節水が必要なこと」「トイレが少し臭うこと」は日常では苦痛と言えますが、登山の場合は、むしろこれらの不自由さを味わうことも“山の醍醐味”の一つです。
おそらくトイレにまで快適な環境を求める人は、グランピングや近場でのキャンプなど、もっと気楽にできるアクティビティを選択するでしょう。
今は贅沢なアウトドアライフが流行っていますが、必ずしも登山者が快適なトイレを望んでいるわけではないのです。
消えた湿原の再生には、長い年月がかかる
私たちはとても愚かなもので、いつも失ってから初めてその価値に気がつきます。
「消えかけている自然環境を取り戻そう」という自然再生事業は全国各地で進んでおり、湿原の乾燥化を食い止める事業に取り組む、北海道の釧路湿原やサロベツ、広島県の八幡湿原がその例です。
私は今回の水洗トイレ化で、もしも高谷池湿原が失われたとしたら、将来的に妙高市が再生事業に乗り出すのではないかと考えています。
それは、妙高市発信か市民発信かはわかりませんが、いつの時代にも必ず「あの頃をもう一度」と考える人は出てくるからです。
しかし、湿原の再生には長い年月がかかります。
一度失ってしまうと、そう簡単に取り戻せないのです。
数年後、数十年後など、いずれ自然再生事業に踏み切る可能性があるのであれば、早めに手を打って、貴重な観光スポットを守った方がいいでしょう。
あとがき
今回の記事を書くきっかけとなったのは、アウトドア専門学校時代にお世話になった先生がSNSで発信した一つのメッセージからでした。
「みなさんの力を貸してください」
そう書かれた後に、火打山・高谷池ヒュッテの水洗トイレが環境に及ぼす影響が長文で書かれていました。
どうやら高谷池湿原の景観を将来に残すためには、以前のバイオマストイレに戻す必要がありそうです。
事業の撤退もまた、行政が苦手とする分野ですが、こればかりは取り組まないと後悔することになると思います。
火打山・高谷池ヒュッテのバイオマストイレ化に賛同いただける方や興味のある方は、ぜひ下記リンクも見てみてください。
一人でも多くの自然好きに伝わりますように。